ぷちファミリーヒストリー 母の生家の住所を調べてみた編

 子どものころ、入試など、ここ一番のときにはとげぬき地蔵のお札をのんで臨みました。とげぬき地蔵のお札とは、全長2センチくらいのお地蔵さまが印刷してある薄い紙のお札、正式には御影(おみかげ)というものです。私の母は巣鴨で生まれ育ったので、幼いころから親しんだお地蔵さまに、深い信心を寄せていたのでした。

 そういえば、お地蔵さまは何度ものんだけれど、私は一度も巣鴨にも、とげぬき地蔵さまにも行ったことがありません。母の家族は、戦時下に郊外に疎開して、以来、巣鴨には戻らなかったのでした。

 母の生まれ育った場所を見てみたい、ふとそう思いました。

 住所を確認する
 ますは私の戸籍の母の記載を確認します。「昭和12年 東京市豊島区西巣鴨三丁目○○番地にて出生」とあります。この住所が母の生まれ育った巣鴨の家の住所です。

 現在も「西巣鴨三丁目」は存在し、大正大学があるあたりです。西巣鴨三丁目は、町名はそのままで、現在は番地表示ではなく住居表示になっています。「○○番地」が「〇丁目〇番〇号」という形の住居表示に変わっただけなら、ブルーマップをみれば、かつての番地表示は大体現在の地番と同じだから簡単に調べがつきます。

 豊島区の中央図書館に行ってブルーマップを見てみることにします。

 実際の地図で確認する
 豊島区立中央図書館に行き、「郷土資料コーナー」に向かいました。地域の地図と一緒にブルーマップを置いている図書館も多いからです。

 すると、ブルーマップより先に、豊島区立郷土資料館編成の『豊島区地域地図第4集 東京近傍1万分の1地形図 1937(昭和12)年第4回修正』という地図が目につきました。昭和12年はまさに母の生まれた年であるし、番地も細かく書き込まれている、ピタリ欲しい地図です。

 巣鴨のあたりをコピーして、現在の地図と対比してみました。

 巣鴨にあったから巣鴨プリズン
 豊島区役所に確認したところ、巣鴨一帯は、昭和45年に住居表示を実施したときに町名変更もあったそうです。そのため、現在ある巣鴨・西巣鴨と、それ以前の巣鴨・西巣鴨はかなり位置がずれていて、同じ西巣鴨三丁目でも場所が違います。この昭和12年の地図を見つけることができてよかったです。

 現在の地図と昭和12年の地図とを見比べてみると、西巣鴨エリアが昭和12年当時のほうが広かったことがわかります。国鉄(JR)、都電、明治通りなどの主要道路が現在とほぼ変わっていないので、対比がしやすいです。

 具体的に言うと、現在の東池袋・大塚のあたりも西巣鴨であり、巣鴨刑務所(巣鴨プリズン)は当時は池袋ではなく西巣鴨一丁目の所在でした。

 かつての西巣鴨一丁目
 ⇒ 現在の東池袋3~5丁目

 かつての西巣鴨二丁目
 ⇒ 現在の上池袋一丁目、東池袋二丁目、南大塚三丁目、北大塚二丁目の一部、
   北大塚三丁目

 かつての西巣鴨三丁目
 ⇒ 現在の北大塚二丁目の一部、西巣鴨一・二丁目

 かつての西巣鴨四丁目
 ⇒ 現在の西巣鴨三・四丁目、巣鴨四・五丁目

『ぷちファミリーヒストリ 母の生家に行ってみた編』に続きます。