調べてみたら秋葉原は台東区でした

 台東区浅草の郵便番号を『郵便番号簿』で調べていたら、浅草の一つ上に「秋葉原」があることに気づきました。台東区秋葉原?千代田区ではなく?秋葉原といえば、「外神田」と「神田○○町」で構成されている神田エリアの一端の千代田区、というのが私の認識でしたから、秋葉原が台東区とはどういうことなのか、ピンときません。

 地図で見てみると、台東区秋葉原は、台東区の千代田区の境目あたり、JRの線路と蔵前通りと昭和通りに囲まれた2街区ほど(200m×200mくらい)の小さなブロックです。アキバエリアからは少し離れた場所に、ちまっと存在する秋葉原に興味がわいてきました。調べてみます。

秋葉原の地名の由来

 「秋葉原」の地名の由来は、火伏地(延焼防止のための空き地)に秋葉神社が勧請されていて、秋葉神社のある原っぱだったからというのは有名な話です。

 明治時代、火伏地に秋葉原駅がつくられることになり、秋葉神社は移転したとウィキペディアにありました。まずは秋葉神社に行ってみます。

秋葉神社に行ってみた

 神田花岡町の火伏地から移転した秋葉神社は、現在は台東区松ケ谷3丁目の住宅地の中に鎮座しています。ご祭神は火産霊大神(火の神)、水波能売神(水の神)、埴山山比売神(土の神)です。実は秋葉神社本宮のご祭神は火之迦具土大神 ( ヒノカグツチノオオミカミ)です。ネットで拾った情報ですが、同じ火伏(火事除け)の神様だから秋葉の神様を勧請したのではなかったけれど「秋葉さまだ」ということで、秋葉神社と呼ばれるようになったということなのだそうです。

 しかし、秋葉原の地名の由来となった秋葉神社が、なぜ台東区松ケ谷(最寄り駅は入谷駅)にあるのでしょうか。秋葉原から離れているし、神田エリアからも離れています。なぞは深まるばかりです。

台東区中央図書館郷土資料室に行ってみた

 地名の変遷は地図でたどるのがわかりやすいかもしれない、と思い秋葉神社からも割と近い合羽橋にある台東区中央図書館の郷土資料室に足を運びました。

 こちらには江戸時代の地図から現在までの地図が取り揃えられています。なかなかすごいです。面白そうです。

 台東区「秋葉原」の町名は、昭和39年の住居表示実施の時に町名変更されて命名されたものです。元の町名は「下谷練塀町」といいました。下谷練塀町を地図で追っていきます。

 明治時代の地図でみてみると、火伏地は神田花岡町、現在秋葉原駅がある場所です。その北側、蔵前通りまでの地域が下谷練塀町です。現在もそうですが、神田区と下谷区の境界線は蔵前通りあたりなのですが、下谷練塀町は下谷区から神田区の南部にはみだした格好です。

 明治23年に鉄道が敷設され、火伏地、秋葉の原(神田花岡町)に秋葉原駅が設置されます。そのため秋葉神社は下谷区入谷(台東区松ケ谷)に移転します。秋葉原駅から上野方面への線路が下谷練塀町の西部に敷設され、鉄道敷地になることで、町域は少し狭くなります。

 大正14年に駅が拡大し、線路が高架化され、さらに町域は狭くなります。

 昭和18年に下谷練塀町の南部分3分の2が「神田練塀町」となり神田区に編入されます。下谷練塀町は昭和通りと挟まれた神田松永町の一部を併合し、現在の町域と同じになります。

 そして、昭和39年の台東区の住居表示実施時に下谷練塀町は「秋葉原」という町名に変わり、現在に至ります。

台東区秋葉原に行ってみた

 昭和通りと蔵前通りが交差する台東1丁目の交差点から、肉のハナマサを横目にJRの高架をくぐるまでが秋葉原の北の境界線、そこからの区画が秋葉原の町です。アキバのにぎやかさから少し離れた古いビルも残る静かな町です。現在、日本農業新聞の新社屋が建設中です。

 線路沿いに小さな公園がありました。「秋葉原練塀公園」という名前です。下谷練塀町の名残を感じます。

 下谷練塀町の町名変更をする際に「秋葉原」という名称を選択した理由はわかりませんでしたが、かつて秋葉の原の秋葉神社を大切にしていた下谷練塀町の町の人々の記憶を、「秋葉原」という町名に込めたのではないか、という推測はセンチメンタルが過ぎるでしょうか。

 秋葉原のもととなった神社が台東区にあるというのは現在の感覚で、下谷練塀町と同じ下谷区の入谷(現在の松ケ谷)に移転するのも、そう不思議ではないのでしょう。

 以上、台東区立中央図書館所蔵の明治・大正・昭和の地図や郷土資料、台東区のHP,ウィキぺディアの記載をつなげて調べてみました。神田練塀町会のHPも参考にさせていただきました。

 戦後のラジオ備品の露天商から電気街へ、そして新しいカルチャーの発信地と時代の変化に柔軟な秋葉原の地の、歴史の一端にふれることができた調査でした。楽しかったです。